2つの後悔

人生は「後悔の連続」だと思います。
後から振り返れば「あーしておけばよかった、こうしておいた方が得だった」と感じることのオンパレードです。
人間誰しもそういう後悔があるから「最高の教師」(TVドラマ)や「東京リベンジャーズ」(漫画)のような「生まれ変わりのストーリー」が支持されるのだと思います。
どんな人にも「あの時に違う選択をしていたら、今の人生とは大きく変わったかもしれない!!」と思う選択はいくつかあると思います。
人生は1度きりなので、その選択をしていたとしても、人生がどう変わっていたかを知る術はないのであくまでも想像の範囲になってきますが、そういう想像をすることは楽しい場合もあるし、後悔の念に駆られる場合もあります。

「歴史にifはない」と言われていますが、「本能寺の変がなかったら………」「豊臣秀吉が長生きしていたら……」「坂本龍馬が暗殺されなかったら……」「徳川慶喜が無血開城しなかったら……」など、歴史において「if」「もしも………」ということをテーマに話をされることがありますが、最終的には歴史はすべて「必然的に起こっている」と考えるしかありません。
過去の歴史を振り返ると、当時とは違う選択をしておいたほうが良かったのではないかと感じることは多々ありますが、その時には「この選択肢がベストだ!」という判断になったのは必然だったと思うしかないのではないでしょうか?!
コロナが発生してから4年近く経過しますが、4年前の選択を今から振り返ると、意味があったのか、正しかったのか、と感じることはたくさんありますが、それは今現在から過去を見るからそう思えるのですが、未来が読めない当時からすると仕方なかった部分もたくさんあると思います。

「この世に偶然なんてない、あるのは必然だけ!」という考え方がありますが、偶然起こったことなら、違う選択肢もあったのではないか!?と考えたくもなりますが、「全てのことが必然で起こっている」と考えれば「歴史にifはない」「歴史は必然の積み重ね」だという見方になってきます。
歴史という大掛かりなことでなくても、それぞれ個人の人生においても「歴史にifはない」「歴史は必然の積み重ね」だと考えれば、「あの時に違う選択をしておけばよかった!」という後悔も少しは受け入れられるような気がします。

そもそも過去の選択の後悔には2種類の後悔があると思っています。
1つは、選択の結果が自分の望むものでなかった後悔で、「舌切り雀」のお話で、大きなつづらと小さなつづらの選択のような、どっちの選択の方が得をするかという1/2の確率で「逆を選んだ方が得だった!!」と損か得かの「結果に対しての後悔」です。
2つめは、例えば、友人がいじめられていて、自分が友人側について助けに入ったりすると、自分もいじめられる対象になったりするのではないか!?という恐怖心から友人を助けなかった場合の「考え方やプロセスに対しての後悔」です。

初めの「結果に対しての後悔」は、どんな場合でも事前に結果を知ることはできないので、一か八かの運や結果次第の答えのないエンドレスに続く後悔になります。
一方、「考え方やプロセスに対しての後悔」は、人としてどうすることが正しかったのか、今だったら違う選択をした際に、どういう結果になったとしても、その結果を受け入れたであろうという後悔は、その人が成長したからこそできる「前向きな後悔」だと思います。
「結果論の後悔」は、結局は損か得かの利己的な後悔になりますが、「プロセスの後悔」は人としての考え方のある意味、利他的な後悔になります。
「結果論の後悔」には何のメリットもないですが、「プロセスの後悔」はその人の「成長のあかし」のような気がします。

「この世に偶然なんてない、あるのは必然だけ」という考え方からすれば、目の前に起こっていることはすべて「何かに気づいて学ぶために起こっている」のだと考える方が、人生に抗わなくて済むような気がします。

苦しみ=痛み×抵抗

という方程式があるみたいですが、目の前の望まない現実(痛み)に対して、抗えば抗うほど苦しみは増してきます。
目の前の現実(痛み)に抵抗しないで受け入れるためには、目の前の現実を「(ついてない)偶然の出来事」と受け止めるのか、「(何かに気づくための」必然な出来事」と受け止めるのかで苦しみや悩みの程度が違ってくるような気がします。

 

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