私たちは誰もが大なり小なりの「プライド」を持って生きています。
特に、周囲から「先生」と呼ばれたり、人一倍努力して難しい関門を突破してきたプロフェッショナルな人にとって、その自負やプライドは、時に自分を支える柱となり、時に自分を間違った方向に導く足かせになることもあります。
1. プライドという「根っこ」と、どう付き合うか
社会的に成功を収めたり、専門的な立場にいたりすると、どうしても「自分は普通の人とは違う」という優越感や、強い自己中心性が顔を出すことがあります。
これは決して悪いことではなく、誰の心の奥底にも大なり小なり「プライド」のようなものは存在しています。
大切なのは、その「プライド」をそのまま外に出すか、あるいは心の中に大切に仕舞っておくかという選択です。
もし、プライドを振りかざして周囲にマウントを取ってしまえば、人は次第に離れていき、居心地の悪い空間を自ら作ってしまうことになります。
一方で、笑福亭鶴瓶さんが語った、プライドは抑えながら「いい人を演じる」という生き方があります。
自分を「いい人」だとは思っていなくても、「いい人を演じる」ことで周囲の反応が良くなり、結果として自分自身も嫌な思いをせずに済むようになるのです。
「演じるのは疲れる」という意見もありますが、演じ続けるうちにそれが少しずつ自分に馴染み、生きやすさに繋がっていくという好循環は、人間関係における1つの「適応」のカタチだと言えるでしょう。
2. 「幸せ」は、誰の物差しで測るもの?
私たちはまた、「大切な存在を幸せにしたい」という願いも持っています。それがスタッフであれ、子供であれ、あるいはペットであれ、私たちは「何がその人にとっての幸せか」を常に模索しています。
しかし、「幸せの正体」ほど曖昧なものはありません。
例えば、テレビでいろんなイベントに連れて行ってもらっている犬を見て、特別なことをしてあげていない自分の犬が「かわいそうだ」と感じてしまうことがあります。
あるいは、犬にとっては健康のために正しい食事制限をすることが幸せなのか、寿命を縮めてでも好きなものを自由に食べさせてあげることが幸せなのか、答えはないかもしれません。
子育ても同様です。休み中にどこかへ連れて行ってあげられない子供を「かわいそう」だと周囲が決めつけたとしても、子供自身は案外、友達と遊ぶ日常の中で十分に満たされていることもあります。
幸せとは、決して「外から見える条件」だけで決まるものではありません。本人がその状況をどう感じているかの一点に尽きるのです。
3. 「大切にする」という問いに、答えはない
人を育てる、あるいは人を大切にする際、私たちは「厳しくすべきか、自由にさせるべきか」という問いにぶつかります。自分の親から受けた厳しい教育を反面教師にする人もいれば、その厳しさに感謝して同じように接する人もいます。
この問いにたった一つの正解はありません。
スタッフを大切に考える場合に「給料を上げればいいのか」「休みを増やせばいいのか」といった分かりやすい基準だけでは測れない何かが、人間関係の本質には横たわっています。
「人を大切にするとはどういうことか?」という問いに対して、私たちができるのは、ただ謙虚に考え続け、自分なりに「こうしてあげたい」と思うことを一つずつ実行していくことだけなのかもしれません。
相手にとってはありがた迷惑のこともあるかもしれませんが、「大切にする」ということに絶対的な答えがない以上は、「自分がしてほしいことを相手にしてあげる」「自分がしてほしくないことは相手にしない」の積み重ねのような気がします。
おわりに
私たちはロボットではないからこそ、自分勝手になることもあれば、プライドを守りたくなることもあります。それでも、他人に配慮しようと自分を抑え、目の前の誰かを喜ばせようと試行錯誤する。
その「答えの出ないテーマを一生考え続ける姿勢」そのものが、人間の深みであり、優しさの正体なのだと私は思います。