電車通勤での喧噪から
朝の通勤ラッシュのイライラから電車内での喧嘩や事件が起きているのを目にすることがあります。
私自身も苛立って、似たような当事者になりかけたりしたことがあるため、「人ごとではない」と感じてしまいました。
こうした状況、特に電車内の言い争いは、どちらの当事者も自分が正しいと思って、その正しさを主張することで起こります。もしどちらかが「ごめん」と言って謝っていたら、あのような事態にはならなかったのかもしれません。しかし、互いに「自分は間違っていない」と思うからこそ、言い争いになってしまうのです。
電車内に限らず、自分の思い通りにならないことがあった時、イラッとして大声を出したり、感情を態度に出してしまうことは、日常でよくあることです。感情は理性で抑えられないため、感情的になると、相手が悪いと考え、「怒るのが当然だ!」と思ってしまうものです。この感情を態度に出すか出さないかは、個人のレベルや状況によって異なってくるでしょう。
「怒り」は自分が選択している?
しかし、この感情的な反応について、ウィリアム・グラッサー医学博士の「選択理論」で、「すべてのことは自分が選択している」という概念が存在すると学びました。それは、「全ての感情や行動は自分が選択して選んで日々生きている」というものです。
以前は、怒りや悲しみは感情であり、感情はコントロールできないからそうなるのだと思っていました。しかし、その学者は、怒りも悲しい感情も全て自分が選択していると説いています。電車内で言い争っていた人たちも、この時に怒っているのは相手が悪いのではなく、自分が「怒るという選択」をしているからだということになります。
目の前にある出来事が起こった後にどういう行動を取るかも、自分で決めているのです。同じ電車内で同じ状況になっても、怒らない人もいれば、態度に出さない人もいます。つまり、怒りの態度も含め、全ての行動は自分が選択した上で行っているということです。
この考えを裏付けるように、相手が怖そうな人だったり、自分が勝てないと思うような人だったり、あるいは偉い人や有名な人だったりした場合に、自分の主張を言い通そうとは思わないことがあります。
また、学校の先生に怒られるのと、同級生から怒られるのとでは、たとえ同じことを言われても、尊敬しているかどうかなどで対応が違ってきます。これは、同じ状況でも怒るか怒らないかという判断を自分で決めている証拠だと感じます。
そうは言っても、感情に支配されてしまい、怒ったり悲しんだりすることは、なかなかコントロールできないことだというのも事実です。感情的に完全に支配されてしまうと、自分でコントロールできない状態になってしまうのです。
怒りの対極にある「感謝」の力
では、怒りの感情を乗り越え、コントロールしていく一番簡単な方法は何でしょうか。
それは、日々色んな事に感謝する気持ちを持つことだと教えられました。
怒りと感謝は、まさに正反対の極にある感情です。この両者の波長は同じ場所に存在できないらしいです。
感謝している気持ちがある時には、怒りは生じにくいとされています。確かに、感謝して楽しいことがある時に、わざわざ怒ることはないだろうと思います。
年を取ってくると、親や周囲の人たちが「感謝、感謝」と言うようになります。作家の林真理子さんがあるエッセイで、「年を取るとみんな感謝お化けになる」と良い意味で書かれていました。
生きていると嫌なことがたくさん起きますが、年を取ってくると、感謝を増やすことで嫌なことが減るというのを、経験的に感じるようになるのかもしれません。
怒りをコントロールし、感謝を増やそうと努力する人は多くいます(例:アンガーマネジメント)が、なかなか思うようにコントロールできないのが実情です。
感謝はゼロかイチではない
怒りのコントロールには感謝が有効だと頭では分かっていても、すぐに「明日から感謝を増やして怒りをコントロールしよう」と切り替えるのは難しいでしょう。
以前、同級生と話していた際、私が不平不満を口にしている時に「それは感謝が足りないからだよ」と言われ、その時は「感謝しているし、同級生から感謝が足りないと言われたくない」とカチンときたことがありました。しかし、後で考えてみると、彼は「感謝していない」からだとは言わず、「感謝が足りない」からだと言ったのです。
感謝をしているかどうかはゼロかイチではありません。どれくらい感謝したら十分かという基準もなく、相手が足りていないと思えば足りていないのかもしれません。結局、一つの物事に対してどれだけ感謝できるかが、人生における修行の量なのかもしれません。
嫌なことにこそ感謝の修行
今回の気づきは、良いことが起きたら誰でも感謝するものだ、ということでした。自分にとって良いことが起きて感謝するのは、食事をしてお金を払うのと同じで誰もがすることです。料理を食べてお金を払わなければ無銭飲食になります。(笑)
人生における修業は、一見すると嫌なことのように見える現実でさえもどれだけ感謝できるかなのだと思います。
一見すると「ついてないな」「なんで自分だけが、、、」と思えるようなことでも、「これは成長するチャンスなんだ」「感謝が足りないという合図なんだ」等、そういう時にこそ神様から人間のレベルを試されているのだと思います。
「人が生きているのは感謝できる人間になるためだ」と言っていた人がいましたが、常に「感謝が足りていない」という謙虚な気持ちで生きていきたいものです。